D4DF6A7B-3822-43A0-8AB4-DAB83E394699

後醍醐天皇と名和長年ゆかりの地をめぐり、 郷土の歴史ロマンを体験してみませんか?

太平記とは?

太平記は、作者や成立時期など不詳ですが、後醍醐天皇の即位(1318 年)から細川頼之の管領就任(1368 年)までの約 50 年間にわたる南北朝争乱について描いた軍記物語です。
太平の世の中を望んだことから、その名が付けられたといわれています。
内容は、南朝寄りに描かれており、かなり脚色された作品であると考えられています。
この内、山陰が舞台となるのは、第 1 部にあたります。

太平記ゆかりの地

~名和~

お腰かけ岩

元弘 3(1333)年に、隠岐島を脱出された後醍醐天皇が、無事に名和湊(現在の御来屋港)に到着された際、しばらくの間お腰掛けになった岩と伝えられています。

名和神社

後醍醐天皇を隠岐の島からお迎えし、一族郎党を率いて船上山に立
てこもり、王事に奮戦した南朝の忠臣・名和長年公をはじめ、一族郎党 42 柱の英魂をまつった元別格官幣社。
現在も、名和公の子孫が宮司として奉職しています。

長綱寺

名和長高(後の長年)公が父・行高の 60 歳を祝って建てた隠居所が始まり。
寺紋は帆掛け船で、後醍醐天皇から名和氏に賜ったものです。

3人五輪

長者原と呼ばれる畑の中に5基の五輪の塔があります名和長年公らは、足利尊氏が後醍醐天皇から離反した後も、最後まで天皇を守って戦い、討死した彼らの首を、家臣が守って持ち帰りここに祀ったと伝えられています。

~船上山~

屛風岩

船上山の東側は、山腹一帯にわたって約 40 万年前に形成された大屏風を引きまわしたような柱状節理による
溶岩壁(両輝石安山岩)が約 600mにも及んでおり、屏風岩と呼ばれています。高い所では 100m以上あります。

船上山行宮之碑

船上山山頂一帯を薄ヶ原といい、この東側にある小さい丘をお休み場といいます。ここからの眺めは素晴らしく、絶景を楽しむことができます。また、後醍醐天皇が船上山に行在のときには、このお休み場で野立てをされたとも言われています。

一の木戸

頂上から船上神社に行くまでの登山道にあり、迫ってくる幕府軍に備えて、名和長利が一夜で築いたとも言われていますが、実際は道の水ぬきで、江戸時代の築造と考えられます。

奥の院

寺の領域に神を祀って寺内鎮守として安全を祈願したのが、奥の院ではないかと考えられています。
御神体が船上神社に移されたのち、現在では後醍醐天皇の尊霊と大山祗神が祀られています。

太平記ウォークの舞台になった場所

御来屋

後醍醐天皇が島流しにあった沖ノ島より脱出してたどり着いた場所といわれている大山町御来屋地区

船上山

後醍醐天皇が名和長年と共に立てこもって戦った琴浦町船上山

大山町・琴浦町の詳細な観光情報については下記のリンクをご覧ください。